標準時
2024-02-29 2024-03-07佐クマサトシ 「標準時」 左右社
はじめに
わたしが佐クマサトシをはじめて知ったのは青松輝1のブログ記事だった。ここで連作「vignette」を読んで、こういう短歌をつくる人がいるのかと思った。
もっとも気に入った歌はやはりこれだ。
クリスマス・ソングが好きだ クリスマス・ソングが好きだというのは嘘だ
「A かつ A でない」という端的な矛盾を、モチーフ選びのうまさでひとつの作品に昇華している。できあがりはシンプルだが、このような構造の短歌をつくることを思いついても、実際にかたちにするのは苦労のいることだろう。
「標準時」の帯でフィーチャーされていたのも納得である。
フラットさ
彼の短歌の特徴は感情のフラットさ、他人事的な感覚にあると思う。
教科書に出てきそうな文章を横すべりさせて短歌の定型にはめたような作品群はそれをよくあらわしている。
晩年は神秘主義へと陥った僕のほうから伝えておくね
それは二十世紀を通じての潮流でしたがまもなく離陸いたします
以前、アーティゾン美術館でダムタイプの展示「2022: remap」をみた。
展示室の四方の壁にレーザー光線でテキストが投影される。それらのフレーズは 1850 年代の地理の教科書から取られたものだ2。
What is the shape of the Earth?
地球はどのような形ですか?
What is an Ocean?
海とは何ですか?
How many Countries are there?
国はいくつありますか?
How are they divided?
それらはどのように分割されていますか?
ここで活用されているのは、これらの教科書的な問いが、普遍性、シンプルで安全な雰囲気、教育的な清潔さをもっていることだと思う。
佐クマの定型文をもちいた作品も、これと似た効果をねらっているといえないだろうか。客観的な定型文が下の句で身近な世界になり、そこで読み手は普遍的なものが迫ってくる感覚をあじわう。それでいて読後感はあっさりとしている。
私性
彼の短歌にただよう他人事的な感覚は、私性のうすさと言い換えてもよい。
岡井隆は「短歌は、究極のところ、私性を肯定した抒情詩3」であると述べた。事実、短歌を読むときにそれが作者の実体験であると想定したり、作中に出てくる「わたし」「われ」が作者自身だと想定することは一般的だろう。しかし佐クマの短歌においては、「わたし」はしばしば置き換え可能な存在である。
たとえばこれらについては、「ある人生を生きている作者がその歌をつくった」という背景はそれほど重要ではないようにみえる。
僕は幾度となくそれを誤記して、訂正して、お詫びします。
そういう考え方もあると思うし否定はしないけど葱も買う
外国の言葉で僕は飛行機が遅れている理由を聞いていた
短歌において私性を破壊した、といってまず思い浮かぶのは塚本邦雄だ。
革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ 4
錐・蠍・旱・雁・掏摸・檻・囮・森・橇・二人・鎖・百合・塵 5
などの秀歌が私性のあらわれとして読まれることはないだろうし、それが問題だとされることもないと思う。
かつて羽生善治が「将棋はゲームだ」と言って話題になった6。今となっては驚くべきでもない7発言だけども、当時はセンセーショナルに受けとられたようだ。 短歌も、私性の表現ではなく、読者の読みを喚起するように配置された言葉のつらなりだと言ってもよいのではないか。佐クマの短歌はこの意味でゲーム的であるだろう。
おわりに
「vignette」の最後をかざる次の一首は感動的だ。感情の起伏がおさえられた連作の中で素朴な輝きを放っている。
私はこれまでに流れ星を見たことがあるような気がします
感動したと言っておいてなんだけども、これは「わたくしは〜」と読みはじめて 5・5・6・7・8 でいいのだろうか。口に出してみるとつっかえる感じがまたいい。 破調にも定番の破調があって、たとえば塚本が愛用した初句七音(7・7・5・7・7)は取り回しやすい。それに対して 5・5・6・7・8 はかなり難しい。