ニューロマンサー
2024-02-07 2024-02-07 , featured image by Francisco Diez from New Jersey, USA, CC BY 2.0, via Wikimedia Commonsウィリアム・ギブスン 「ニューロマンサー」 早川書房
中学生か高校生で手にとったときは数ページでやめてしまった記憶があったけども、今になって読んでみると異常におもしろい。サイバーパンクの原点にして、基本的なアイデアがすべて出尽くしている金字塔的な作品だと思う。
訳者・黒丸尚の文体もすばらしい。読みにくいという人もいるようだが、わたしはむしろハマった。スピード感がありながら、ルビや造語をばらまくことで重みも同時に保っている。
ハードボイルドさ
「あたしが知りたいのは、埋めこみだよ」
とモリイは太腿を揉み、
「奴がつまり、どういうことができるか」
タージバシュジアンはうなずき、
「英語でいうなら、最悪。識閾下」
と最後の言葉を慎重に区切って発音した。1
SF の古典として手に取ったので、ハードボイルドな話の運びはちょっと意外だった。SF とひとくちに言っても、生の思考実験を読まされるような作品から高いエンターテイメント性をもったものまでさまざまあるが、「ニューロマンサー」は後者。ページをめくる手が止まらない部類の小説だ。
ざっとあらすじを述べると、主人公ケイスはかつて電脳空間に潜りこむやり手のコンソール・カウボーイであった。しかし、雇い主から盗みを働いた罰として中枢神経系を傷つけられ、その能力をうばわれてしまう。 その後千葉シティでケチな犯罪者として生きるケイスの前に、女傭兵モリイと謎の男アーミテジがあらわれる。アーミテジはケイスの能力を修復するかわりに大動脈に毒入りの嚢を仕込み、逆らえないようにする。 アーミテジは秘密主義の富豪テスィエ=アシュプール一族の保有する AI「冬寂」の意をうけて動いているようだが、その目的は判然としない。
ケイスは以下のような目的を並行に達成しようとすることになる。
- アーミテジから依頼される電脳空間での仕事をやり遂げること
- アーミテジの真意、ひいては「冬寂」の目的を解き明かすこと
- 何より、自分の体内に仕込まれた毒嚢を取り除くこと
といったような感じ。
これらが並行して描かれるので、読み味にはミステリやサスペンス的なところがある。主人公のチームと敵チーム、といった単純な構図ではなく、ケイス、アーミテジ、「冬寂」、テスィエ=アシュプール一族、などのアクターが複雑に絡みあう。 伏線が最後にきれいに回収されるというわけではないのだけども、それを差し引いても小説としての技術の高さを感じる。
心理より状況の記述に重きをおくところからしても、こう言ってよければ、一人称視点のゲームを遊んでいるような読み味もある。電脳空間での仕掛けや、擬験の描写なんかはまさしくゲーム的だ。
内側に広がる迷宮
「ヴィラ迷光は内に向けて増殖する個体、擬ゴシック風の阿房宮です。迷光の中の各空間は、なんらかの意味で秘密であり、この果てしない部屋の連続をつなぐ形で、通路や、腸のように彎曲した階段があり、眼は極端な曲線に捕われ、華麗な幕や空虚な小部屋を通り抜けて運ばれ——」
「3ジェインの作文だ」
言いながらフィンはパルタガスを取り出し、 「十二歳のとき、記号論の講義で書いたものさ」2
サイバーパンクの原風景といえば、ネオンサインがきらめく雑然とした繁華街だ。
ニューロマンサーの第一部「千葉市憂愁」もまさしくそういった街を舞台としてはじまる。
港の空の色は、空きチャンネルに合わせた TV の色だった。3
からはじまる印象的なパートである。
しかし、「ニューロマンサー」の後半のおもな舞台は「自由界」と称される宇宙コロニーだ。
この紡錘体はテスィエ=アシュプール一族により保有されており、その先端には一族の私有地「ヴィラ迷光」が所在する。
この建物の描写はわたしの好みだった。
「——われわれは古い一族であり、わが家の入り組みようは。その時代を反映しています。けれども、別なものの反映でもあるのです。ヴィラの記号性は内向を、外殻の彼方の華やかな虚空の否定を、物語ります。
テスィエとアシュプールとは、重力の井戸を登りつめたあげく、宇宙を唾棄すべきものと看做しました。自由界を建造して、新しい群島の富を吸い上げ、富裕に、偏窟になり、迷光の中に肉体の延長を建設しかかりました。われわれは金銭の蔭に身を封じこめ、内に向けて成熟し、継ぎ目のない自我宇宙を創成したのです。……」4
この「増殖する迷路のような建造物」「内側にある無限」とでもいったモチーフに興味をひかれた。フラクタル的な感覚が近いだろうか。
わたしがこれに関連して思い出すのは、李禹煥の「余白の芸術」にあったアートの手法に関する議論だ。彼はそれを以下のように分類している。
アートは、詩であり批評であり、そして超越的なものである。
そのためには二つの道がある。一つ目は、自分の内面的なイメージを現実化する道である。二つ目は、自分の内面的な考えと外部の現実とを組み合わせる道である。三つ目は、日常の現実をそのまま再生産する道だが、そこには暗示も飛躍もないので、私はそれをアートとはみない。5
李禹煥はこのうち二つ目の手法をもっとも高く評価しているようであり、自身もそのような制作をしている。
だがわたしは、むしろ一つ目のタイプの芸術に心を惹かれるところがある。李禹煥もひとつ目のタイプの芸術をまったく認めていないわけではなく、同書中でも若林奮への高い評価を通じてそれを隠さない。
彼は徹底した虚構性の構築の可能性を信じ、孤独で秘密めいた世界を戦慄するほど着実に作り上げているかに見える。湿り気の多い自家製の刑務所を設けて、そこに入って夢みるナルシスト……6
という李禹煥の評や、
「建物と廊下は別もので、廊下は廊下だけで、さらに廊下は廊下の内側だけで存在しているのではないかと思われた」7
なる若林奮自身の文はヴィラ迷光のつくりを想起させるところがある。
退廃的な千葉の風景だけでなく、こういった静謐で自閉的な空間にもサイバーパンク的な感覚はありうる。